ブログ開設1周年記念!

何をやろうかと考えたわけですが学生時代を主とした自分史なるものを作成してみました。
結構長めなのでお暇と興味のある方のみお読みくださいな。
気が向いたら加筆があるかも。開設1周年で考えてたもう一方の企画はとりあえずは封印。
こちらも気が向いたら公開します。気長に待ってね。

自分史

生年月日1973年(昭和48年)12月20日宮崎県児湯郡高鍋町で生まれる。牛年、射手座、血液型はO型Rh+。ちなみに一時期流行った13星座でも射手座になる生粋の射手座(?)町の産婦人科で明け方生まれ、4000gに迫る大きな赤ちゃんだったらしい。取り上げてくれたお医者さんの孫と友人になるのはまた別のお話。

私立ひかり保育園に入園(当然のことながら本人は覚えてないのでこの辺は飛ばし気味)。
その保育園は赤組(乳幼児)、黄組(2歳)、青組(3歳)、白組(4・5歳)となっているのだが、白組からの記憶しかない。後で母に聞いた話によると、保育所の先生と大喧嘩し、青組の1年間通わせなかったらしい。
白組の2年間同い年の男の園児は自分を含めて4人しかおらず、保育所の間ほとんどその4人で行動することになる。給食のある保育所だったのだが、まあまずかったので食うのが遅く好き嫌いが多かったので、よく掃除の時間まで食べさせられていたものである。(これは小学校の低学年まで続く)

昭和53年西都市立茶臼原(ちゃうすばる)小学校に入学。
いっしょに入学したのが自分を含めて男子4人、女子8人。全校生徒100人そこそこの田舎の小学校。2階立ての鉄筋校舎とバレーコートが1面取れるだけの体育館、前庭、駐車場、1周200mのグラウンド、芋畑、ゴミ焼き場。春は茶摘み、秋は芋掘りがある田舎ののどかな小学校でした。3年生のときに野球少年団に入団。けどずっと補欠。5年生に上がると同時に辞める。4年生の1月に新しく出来た剣道少年団に入団。こっちは6年生で卒業するまで続ける。5年生のときに初めてクラスで一番に給食を食べ終えて感動する。それ以降、好き嫌いは段々なくなり食べる量も多くなり、早さも早くなっていく。修学旅行は6年生の時。人数が少ないので5年生と合同で鹿児島2泊3日。中身はあんまり覚えていない。出発の朝に遅刻して行ったことだけは覚えている。卒業するとき男子4人、女子10人。結局男子は人数変化せず。

昭和60年新富町立上新田(かみにゅうた)中学校入学。
少し大きくなる。といっても全校生徒160人程度。いっしょに入学したのは50数人くらい26~27人づつくらい2クラスになる。人数が少ないので部活動は必須といわれる。一番楽そうという不順な動機から卓球部に入部する。実際一番楽だった。3年の先輩がそれなりに厳しかった1年時を乗り切ると(しかも3年生が引退する夏まで)2年の先輩は人数が少なく、やりたい放題になる。そうそう、中学校のときも茶摘みはあった。修学旅行は3年のとき。北部九州一回り3泊4日。けれど1泊目はなぜか山口下関、2泊目長崎、3泊目熊本。3年のときの最後の体育祭、練習のときに組み体操で上から落ちて左手手首骨折。最後の体育祭を見学で終える。ちなみに、中学校3年間で約30cm身長が伸びる。

平成元年宮崎県立高鍋高等学校入学。
ここはでかい学校。普通科9クラス&家政科2クラス。(現在は家政科は生活情報科と名前が変わっています)同期入学が480名程度。全校生徒1500名弱。野球部は甲子園出場春夏あわせて10回程度。ラグビー部は花園出場10数回。宮崎県内ではわりと名門。OGには今井美紀さんがいます。友達が入った音楽部や弓道部に誘われるものの断って、そのときはまだ同好会だった写真部に入部。(2年のときに部に昇格)もらい物の一眼レフで写真を取り出す。一番多い被写体はそのころ家に10匹以上いた猫。いまだに宮崎に帰るとパネルにした猫の写真とかある。宮崎というお国柄か、勉強は学校が力を入れるしかないので勉強は厳しい。1年時は普通科9クラスのうち1、5、9組が特クラと呼ばれる。一応所属していたのは1組。2年になると理系4クラスと文系5クラスに分かれる。3年になるとさらに理系理科1科目専攻2クラスと理系理科2科目専攻2クラス、文系就職&推薦組2クラス、文系受験組3クラスに分かれる。2年からは朝課外と夕課外が始まり、レギュラーの授業が7コマあるところに朝夕2コマ足されるので最大で9コマ。朝7時くらいから夕方5時くらいまで学校で授業というのがわりと普通。修学旅行は2年の秋。わりとワンパターンな神戸・京都・奈良4泊5日。行き帰りのフェリーで1泊づつで2泊、残りは京都と奈良で1泊づつ。
そして受験。大阪大学理学部、大阪市立大学理学部、関西学院大学理学部、立命館大学理学部、東京理科大学理学部数学科&応用数学科、慶応大学理工学部、福岡大学理学部などを受ける。福岡大学理学部は通るものの納得いってなかったのと経済状況から私学は駄目かなと思ったので浪人することにする。

平成4年代々木ゼミナール福岡校に入学。
が、ほとんど勉強せず。覚えているのは寮に付いていたテニスコートで同じ高校から行った連中とテニスをしたこととか、夜抜け出して屋台で飲んだこと。1年間で増えたのは漫画の数。1年で300冊ほど増える。再び受験。福岡大学理学部、立命館大学理学部、東京理科大理学部、千葉大理学部、信州大学理学部を受ける。福大と信州大学に受かる。信州大学に進学する。

平成5年信州大学理学部数学科入学。
いきなりオリエンテーションをサボりやる気のなさを全開させる。1年目取得した単位数10。(法学4単位、哲学4単位、体育2単位、法学哲学は出欠確認・テストがなくレポートのみで成績決定)当然留年。2年目に至っては取得単位0。当然留年といきそうだがこの年から1年時の留年がなくなり強制的に2年に上がる。この間やっていたのはバイトとゲームとパチンコ。3年目さすがにやばいと感じやりだすがついていけず20単位程度どうにか取っただけになる。4年目40単位ほど取得。が、サボっていた影響が出て2回目の留年。5年目も同じくらい単位を取得どうにか4年生へ進級。6年目卒業。6年目まで第2外国語を残しすれすれで卒業する。就職はゲーム会社を目指して色々受けたものの実らず。就職担当の教官に「推薦状書いてもらえば確実に通る」といわれた株式会社ベンチャーセーフネットを受ける・・・あっさり通る。まだ、受けられるゲーム会社とかあったもののすでに9月を過ぎていたのでベンチャーセーフネットに決める。卒業研究は「射影空間におけるコホモロジー群」。卒業研究発表のときに間違いを指摘されるという大失態を犯すもののどうにか卒業研究の単位12をもらい卒業。が、いまだに卒業論文として形を成したものを未提出。数年に一度担当教官に連絡をとると卒論は?と返事が返ってくる。・・・よく卒業できたもんだと今更ながらに思う。

平成11年4月株式会社ベンチャーセーフネット入社
平成17年2月株式会社VSN(旧社名株式会社ベンチャーセーフネット)退社
平成17年3月株式会社ニュースペース入社
現在に至る・・・
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by yukrid71 | 2005-03-09 23:19 | その他